今日は少し視点を変えて『荘子』「徐無鬼(じょむき)」編のエピソードを取り上げます。このエピソードは、道家思想の核心を象徴する寓話のひとつで、黄帝と童子の対話を通じて「無為自然(むいしぜん)」の理想的な統治のあり方を描いたものです。
この物語の中には、覚醒の扉を開く大事なヒントが隠されているように思います。
物語のあらすじと背景
中国・古代の伝説上の君主・黄帝が、理想的な統治を求めて神仙・大隗神に会うために具茨の山へと向かいますが、その途中で道に迷ってしまいます。
そこで、偶然出会った牧馬の童子(馬の世話をするに子ども)に道を尋ねます。遊ぶように馬を牧し、語る言葉も軽やかな童子は「具茨の山も大隗神の居場所も知っている」と言うのです。何も「為」ことなく、ただ馬を牧している一見無学な童子ですが、黄帝は、その深い知恵に驚き童子に「天下を治める道」を問います。
すると童子は「天下を治める者も、ぼくのようであればいい」と答え、さらに「天下を治めることは馬を牧することと同じで特別なことはない。害する者を除けば自然に秩序が保たれる」と語ります。
黄帝はその言葉に深く感銘を受け、童子を「天師(天の師)」と讃えて退去したという物語です。
この物語の寓意と思想的な意味
この話には荘子の思想が凝縮されています。
無為自然(むいしぜん)
童子は「天下を治めることは特別なことではない」と語りますが、これには「自然のままに任せる」ことが最も良い統治であるという道家1の基本理念が象徴されています。
知恵は年齢や地位に関係ない
童子という年若く、社会的地位もない存在が黄帝よりも深い知恵を持っている。荘子は「真の知者は肩書きや年齢に縛られない」と説いています。
この話は、黄帝という「理想的な王」が童子という「無為の象徴」に教えを乞うという構図で、
「知っている者ほど語らず、語る者ほど知らず」という荘子の逆説的な美学が光ります。
牧馬の比喩
「天下を治めることは馬を牧することと同じ」との言葉は、支配ではなく調和を重視する道家の統治観を象徴しています。害をなす者(馬を傷つける者)を除けば、自然に秩序が保たれるという考えです。
童子の象徴性:無垢なる知恵の化身
無為自然の体現者
童子は「天下を治める者もぼくみたいであればいい」と語りますが、この言葉には、道家の「無為自然(むいしぜん)」の思想が込められています。
童子は何も「為す」ことなく、ただ馬を牧している存在ですが、その姿こそが最も理想的な統治者のあり方であると荘子は語ります。自然に任せ、干渉せず、調和の中に生きる者こそが「天師」だと言うのです。
知恵と年齢の逆転
童子は年若く、社会的地位もない存在ですが、黄帝という「聖王」よりも深い知恵を持っています。荘子はここで、知恵は年齢や経験に比例しないことを示しています。真の知者は、無垢であるがゆえに偏見や執着から自由であり、道(タオ)に近いと説くのです。
遊戯性と自由
荘子において「遊ぶこと」は重要なテーマです。遊戯は自由の象徴であり、道に従う生き方だと。童子の姿は、まさに束縛されない魂のあり方を象徴していると言えます。
神秘的な導き手
具茨の山への道を知っている童子は黄帝を導く存在でもあります。これは「道」への導き手として、童子は神仙ではないが、神仙以上の知恵を持ち、道を示す者として比喩的に描かれています。
童子=「道(タオ)」そのものの擬人化
この童子は、単なる人物ではなく「道」そのものの擬人化とも言えます。
- 無為でありながら、すべてを知っている。
- 語らずして導き、為さずして治める。
荘子が理想とする「真人(しんじん)」の姿が童子に投影されていると見ることができます。
✨ 覚醒の扉を開くヒント
この寓話には、まさに「覚醒の扉を開く大事なヒント」がいくつもあるように思います。
無為、無垢である純粋な魂が真の知恵を生む
この物語は、年齢や経験ではなく、何より魂の純粋性が真の知恵を生むと言うことを教えてくれています。
ついつい、私たちは頭で考えてしまいます。そして、頭で考えることで無用の偏見や執着が膨らんでしまい、逆に「道=覚醒の扉」から遠くなっているのかもしれません。「知っている者ほど語らず、語る者ほど知らず」という荘子の逆説的な美学には深いものがありますよね。童子のように知識に染まらず「無為であり、無垢でありながら深遠」な存在になることが覚醒の扉を開く道なのかもしれません。
楽しく、軽やかに、自由に遊ぶ!
上でも書いたように、荘子において「遊ぶこと」は重要なテーマだとされます。ところが、私たち現代人、特に大人は、日々の忙しさの中で余裕を見失い、大切な「遊ぶ」ということを忘れてしまっているようにも思います。「軽やかに生きる」というのは『覚醒の扉』が大事にしているテーマでもありますが、楽しく、軽やかに、そして魂を解放して自由に「遊ぶ」ということをあらためて見直したいですね。
「楽しく遊びながら覚醒する」最高ですよね!
自然に任せ、調和の中に生きる
荘子は、自然に任せ、調和の中に生きる童子を天師と讃えました。
地球の歴史を振り返ったとき、アトランティス崩壊後の約一万年は、男性性優位の、調和よりも支配構造が優位性を持つ時代でした。しかし、これからの時代は、女性性のエネルギーがより重視される時代へと大きな変革と転換が起きるはずです。
今回取り上げた物語『荘子』「徐無鬼(じょむき)」編の「徐(じょ)」には「ゆっくり、静かに」という意味があるそうです。また「無鬼(むき)」という言葉には「鬼がいない、あるいは鬼を否定する」という意味合いがあるとのことです。日本に目を転じれば、日本古代の縄文という時代は、人々が調和の中で暮らした、争いとは無縁の平和な時代でした。それは、支配構造や対立軸とは無縁の「鬼がいない世界」=「自然と調和した世界」だったのだと思います。
私は、私たちが覚醒(≒スピリチュアルアセンション)を果たしたときの地球は、まさに無鬼の、人々の心は縄文の時代に回帰するような、そんな世界をイメージしています。
覚醒に至る道
以上、この物語は覚醒に至る道を示してくれたように思います。
- 知識に偏らず、無為、無垢に生きる
- 楽しく、軽やかに、自由に遊ぶ
- 自然に任せ、調和の中に生きる
この物語に登場した童子は「内なる道」を象徴しているように思います。覚醒の扉を開く、私たち万人の中にある内なる道を。
老荘思想と覚醒への道
老荘思想は、中国の諸子百家のひとつである道家の大家、老子と荘子の思想を合わせたもので、自然との調和や上述の「無為自然」を重んじます。老荘思想は、孔子らが説いた社会的な秩序や道徳(礼、仁など)を人間が作り出したものとして否定的に捉えています。そして、個人の内面的な自由や、社会の常識にとらわれない生き方を説きます。
こうして見ると、覚醒というテーマを語るときに大事にされる「自分軸」という考え方と、その対極にある「他人軸」という考え方とが、老荘思想と儒家の考え方に重なって見えてきます。もちろん、孔子が説く社会的な秩序や道徳は大切なものだと思います。しかし、それを過大評価し過ぎて、あまりにそれにとらわれてしまうと「他人軸」になってしまうリスクもあるように思います。
孔子らが説く儒家が「社会」を重視するのに対し、老荘思想は「個人の内面的な自由」や「しなやかな生き方」の指針にもなっています。老荘思想は、個が本来持つ価値を回復し、世俗的な常識や価値観にとらわれず、それぞれの立場に安住することを理想とします。「自分はこう感じる。こう思うのだけれど、やはり常識で考えればこっちだよね」と、自分の本心から外れた選択をしてしまう。それは、私たちがよくやりがちな「他人軸」のパターンですよね。
直感を信じ、自分の内なる声に忠実に、正直に生きる。それはまさに老荘思想が大切にする「個人の内面的な自由」や「しなやかな生き方」に通じるものであり、同時に「自分軸」で生きるという選択でもありますよね。
- 道家(どうか)とは、老子や荘子を代表とする古代中国の学派であり、宇宙の根本原理である「道」と「無為自然」の思想を基盤とし「道教」へと発展した。道家は万物の生成・運動・存在を「道」によって説明し、人為を排して自然のままの生き方を説いた。 ↩︎